意識 mbv 生命
先日、Dommuneの配信を見た。テーマはマイブラッディバレンタイン。最近ele-kingから刊行された別冊特集「マイブラッディバレンタインの世界」の実写版ともいうべき配信内容だった。
マイブラッディバレンタインの話題だけにとどまらず、関連する楽曲をdommuneの環境でレコードで流したり、トークショーの語り手の各人はマイブラッディバレンタインからどのように音楽を聴き広げていくか/関連する音楽はどうか、についても語られており、非常に面白いものだった。
その中で、Dommuneの宇川氏が流した音楽、語ったことが自分にとっては大きいものがあった。
宇川氏は、マイブラッディバレンタインと絡める音楽として、裸のラリーズの楽曲をレコードで流した。(楽曲名は忘れてしまった)
ノイズがひたすら覆いつくすような曲で、マイブラッディバレンタイン、ひいてはシューゲイザーを感じるのは確かだった。
しかし自分が耳を奪われたのはそのノイズではなかった。むしろ、そのノイズの裏で鳴っているバッキングのギターとドラムだった。
とてもレゲエ・ダブの音に似ているのである。3拍目にアクセントのあるリズムとカッティングの音はレゲエそのものだし、ドラムの重ね方と強調性はダブに共通する音を強く感じた。バックにあるこの二つの音の反響が本来の主役であり、ノイズは装飾でしかないとまで感じた。この曲を聴いて、ダブとシューゲイザーというのは深いところで繋がりがあるのではないかと自分は考えた。(故にこの雑文を書いている)
シューゲイザーというものをシューゲイザーたらしめているもの。これは一言では言い切ることはできないが、一つの要素として【音を重ねる】ことが挙がるのは確かだろう。ギターの音を何層にも重ねたことにより、ラブレスという作品が生まれたわけである。
音を重ねるという手法はまさしくダブのそれだ。録音された曲を何度も低音を強調して重ね合わせ、リズムを強化する。
重ねている素材が違うだけであり、手法としてはシューゲイザーとダブというのはかなり似通ったものであることが、宇川氏がチョイスした裸のラリーズの曲を聴いて理解できたことである。
音を重ねるという共通項から思い出したことがある。
自分は、このdommuneの配信の前に、名古屋で開催されたイベント「Dreamwaves」に行っていた。シューゲイザー系のバンドのライブもあったが、前半は黒田隆憲氏、小野肇久氏、日置氏(Eastoklab)によるトークショーであった。その中で黒田氏は『シューゲイザーを感じたもの』として、ジェイムスブレイクの初来日ライブを挙げていた。シンセの音がどんどん重なり、ホールを埋め尽くしていく体感が、シューゲイザーを聴いている感覚と重なると語った。ここでも、【音を重ねる】という手法が出てくる。
「音の重なり」という「音の調理法」が鍵なのだ、ということがこれらのことから分かる。それがギターの轟音なのかどうかという「素材」が重要ではないのだ。
「音の重なり」をそもそも人間は遥か昔から愛している。その証拠は輪唱と重奏であると考えられる。クラシックとして残っているのは人間の根本に美しさと心地よさが感じられるからであり、我々はそれに触れる度、やはり安らぎを覚える。
わかりやすい例として、以下の動画がある。カノンの重奏をモデルで表現したものだ。数学的にも音楽的にも美しい。
パッヘルベルのカノン自体は300年近く前から存在していたと言われる。この時代といえば、バッハやヘンデルといった所謂「音楽の父」、「音楽の母」と呼ばれた人たちの時代だ。つまり人間の根幹には音を重ねると心地よいという感覚があるのだ。カノンはその感覚が音楽として形にされた最古の形と言えるだろう。
クラシックのようにヨーロッパで生まれたものだけでなく、アフリカで生まれたレゲエ・ダブ、マイブラッディバレンタインをはじめとするシューゲイザーでも、重なりが心地よいという感覚は共通しているはずだ。
そういった人間の無意識に触れる音楽のひとつがシューゲイザーだと、配信およびDreamwavesを振り返って気づかされた。
ここで、dommuneの宇川氏が配信で語っていた言葉というのが、自分の中で強く意味を持つのである。
宇川氏は「生命が誕生する直前・直後」とマイブラッディバレンタインの音を絡めて話していた。生命誕生前の混沌としたものの中から、生命が出現し一つのまとまりとなって動き出す。これは先述した人間の根幹と音楽の形と似ている。人間の無意識を何らかの形となって存在させる。その言わば太古の存在を想起させるのがクラシックやレゲエと同じくシューゲイザーだと、自分は氏の言葉から読み取れる。
もう少し掘り下げてみよう。無意識というものが人間のどこに存在しているのかは不明であるが、生きていなければ、無意識は存在し得ない。生きるために我々は呼吸をし、心臓が動く。酸素を循環させる運動。血液を循環させる運動。新しいものと古いものを常に入れ替えながら。無意識なのか反射なのか生命のシステムとして組み込まれたものなのかわからないが、そうして生命は続く。
血の循環と輪唱や重奏などの音の重ね合わせは似ている。血は動脈と静脈といういわば「新」と「旧」の二つの属性が回りながら重なりながら、一つの生命を構成している。輪唱や重奏は一つの元になる音、先行する音があり、それを追いかけたり何層にも重ねることで、一つの巨大な作品になる。
音の重なりとは、人間の意識の根幹だけでなく、生命の活動を表していると考えれば、より宇川氏の「生命の誕生直前・直後」とマイブラッディバレンタインの音楽が結びつくという考えが深いものとして自分に入ってくる。
脳的な部分にも、肉体的な部分にも近いからこそ、人によって強烈な親和性もしくは拒絶を産むのがマイブラッディバレンタインの世界、シューゲイザーの世界なのだ。
すごく根源的なものを、マイブラッディバレンタインは表現しようとし続けてきたんじゃないかと、この雑文を書きながら気づかされた。